呪われた異邦人

 永遠に明日が来なければ良いのに。香織は、本当にそう思っている。何時のころからかは覚えて居ないが、ずっと学校は地獄だった。
まだ割れそうに痛い左の耳。胃を吐いてしまいそうな、鈍いおなかの痛み。耳を平手打ち、そして足を踏んでの鳩尾への一撃。傷を残さぬよう、だんだんと巧妙になる暴力の数々。そして、ちょっとここでは話せないような恥ずかしい仕打ち。それらの全てから遁れるために、休み時間ともなれば、彼女は必死に逃げ回らねばならなかった。
 今では校舎の隅々まで、頭の中に思い描ける。中から鍵を掛けれる、昔教室でつかっていた石炭を入れるための地下室。新校舎と旧校舎を繋ぐ通路の段差。いざというとき飛び降りて逃げれる、体育館2階入口階段の真下にいつもおかれている高跳用のスポンジマット。理科室の一番左の資材ロッカーから隣の郷土資料室ロッカーへ行ける秘密の抜け穴。体育館のステージ下にある教材置き場への入り方。大正時代に建てられた校舎は、建て増しや改築によって複雑に入り組んでいる。その全てを彼女は熟知していた。
 さて、そうして運よく災難を免れて戻ってみると、鉛筆のしんが全て折られていたり、次の時間に使う教科書がどこかへ隠されていたり。大抵そんな事態になっている。
 訴えても無駄なことはとうに学習していた。
「苦しいです。サンタマリア」
 ひょっとしたら、何か助けがあるかも知れないと、教科書にあった宮沢賢治の一節を唱える。気休めかも知れないが、つい。こんなことでも信じたくなる。
「誰か‥‥誰か助けて。ティミー」
 声にならない声を上げて、むぎゅっとお気に入りのテディベアを抱きしめた。
やわらかなテディベアの温もりだけが彼女の安らぎであった。

 人の想いなどお構いなしに、朝の光が部屋に射す。相変わらずおなかが痛い。
「香織、おきなさい。友達が迎えに来てるわよ」
 ママの声。なにが友達なの、あいつらみんないじめっ子なんだよ。声にならない声がそう叫ぶ。

 そして10分後。家から見えなくなる場所まで来るなり、彼ら形ばかりのじゃんけんの後、香織に6人分の荷物を持たせた。傍目には登校途中のゲームにも見えよう。信号毎に同じことのくり返し、香織にはグーしか出す事を許されていない。ときたまカモフラージュに分担してくれることはあっても、荷物の持ち役はずっと香織に固定されていた。
「あのさ、かこ。まさか昨日の事チクったりしてないよね」
 慌てて首を振る。
「そう? だったらいいんだけど、ところで、こないだのおつり、いつ返してくれる?」
 借金と言っているが、ノートの切れ端に千円と書いて買い物に行かされた時の話だ。
「い‥‥や。いやー!!」
 発作的に香織は荷物を放り出して、逃げ出した。正確に言えば、赤信号の交差点を飛び出した。
 キキィー。タイヤの上げる悲鳴。左からまぶしい朝の光とともに、資材を満載したトラックが迫ってくる。それは、香織にはスローモーションのように見えた。足をとられ倒れこむ香織。
「いやぁ‥‥!?」
 彼女の体は突然、光に包まれた。
(いじめっ子をやっつけたくないのか?)
「‥‥だって‥‥だって」
 いじめっ子達だってかわいそうだもん。
 香織は声無き声でそう叫ぶ。
(いや、違う。おまえは自分をごまかしているのだ。力があればいじめを跳ね返せる。現に、先生なんかはいじめられるほうが悪いと言っているだろう。ちがうか?)
「‥‥だって‥‥だって」
(まあいい。本当のおまえは力を求めている。ならば授けよう、その力を)
 
 気がつくと香織は車道のどまんなかで倒れていた。運よく車が倒れた上を通過したらしい。
「大丈夫か」
 降りて駆け寄るトラックの運転士。幸い、怪我は無かったが、ショックで茫然としている香織を見て、
「念のために病院へ行こう」


 それからまもなく、香織への暴力的ないじめは無くなった。その変わり、と言っては何だが、彼女の回りに障壁でもできたかのように人が寄り付かなくなっている。実は、あの事件以来、彼女に関っていた者が片っ端から原因不明の事故に遭っているのだ。今では不幸を呼ぶ女として、怪しいうわさが町内にまで出まわっている。
 本当にいじめがあった時には、気がつかなかった両親も、これには危機感を持った。
「幸い、今度出来る支店のほうで志願者を募集している。良い機会だから転校させよう」
 こうして、君の街に久保田一家の表札が掛けられることとなったのである。